朝晩の冷え込みが急ともなると、蔵人たちは日に日に緊張の高まりを覚えるものだ。
杜氏ともなれば、これから受け止めなければならない重い責任をひしひしとかみしめることになる。季節のリズムのなかで、酒造りに入る実感を新たにするのだ。自然との不思議な共鳴とか一体感が、蔵人の感性をとぎすますのに必要なのかもしれない。
日本酒造りはもともと、一次産業に近いところ、1.5次産業などとよばれていた。農業と同じく、夏の日照りや雨の降り具合、米の出来具合、雪の降り具合や気温、一年中聞こう「具合」に左右される。この「具合」という自然のファジーさに対応するものは蔵人の経験と勘だ。
ハウスものが一年中出回っている農作物と同様、酒造りでも自然の変動要因の影響を受けぬよう、現在では四季醸造がとりいれられ、暖冬だろうが少雪だろうが、一定の酒造りが可能となっている。一次産業につきものの「旬」がなくなってきているのだ。酒造りも、トマトやキュウリ、イチゴのようになってきた。いわば、清酒工業の時代である。
日本の酒も、グローバリゼーションの波に乗って世界進出がはなやかになってきた。日本のデリケートな気候のことなどは、世界の舞台ではあまり意味がない。自然の影響を受けやすい零細の手造り蔵、つまり「地酒」メーカーの個性も、その土地の文化との密着も、そんなものはますます大きな波のなかに埋没しつつある。
昨今、酒蔵の廃業を頻繁に耳にする。小さな蔵の良心やノウハウがどんどん失われていく。こだわりの深さや愚直なだけでは、酒造りも続けられない。「滅びゆくゆくえに伝統は美しい」と人はいう。
でも「生きていてなお美しい伝統もある」と声を大にして言いたい。日本酒は造り手も飲み手も、人間性の表現であると思う。その人の感性で酒を酌み、感性で酔いを表現し、感性で楽しむものだ。だからこそ、造る側も感性を大事にしたいのだ。その感性は、蔵の立地や風土、人間や自然がもたらすものである。
酒が嗜好品である以上、十人十色、飲み手の数だけ酒の特長があってもいい。開高健氏が、かつてエッセイのなかで、すべての酒がプロトタイプ化して越乃寒梅の亜流になったことを、「一犬虚に吠えて、万犬これに和す」と嘆いたように、たくさんの「良心」が消えていく。
なんといわれようが、酒はコンピューターで造るものだと、私は信じている。日本酒の「旬」は、作り手にせよ飲み手にせよ、人間の感性でしか表現できないものである。
執筆者プロフィール
安達 醇(あだち じゅん)
新潟県長岡市出身 60歳
早稲田大学第一政治経済学部、大阪府立大学農学部卒業。
バイオ化粧品の研究・開発等、微生物学関連の業務に長年従事してきた。
現在、住乃井酒造の製造部長として山廃酒母および商品の研究・開発に従事している。
題字は本人
絵は取締役 山本政道
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